› 獣医が語る「人と動物のより良い関係」

2017年05月19日

犬と猫の上手な関わり方について、講座を開催します。

犬と猫の上手な関わり方について、講座を開催します。
今回の講座は、『岩津ゼミ』 での講座です。
『岩津ゼミ』とは、岡崎市北部地域の岩津の街(岩津天神のある街)に元気を取り戻すために、年2回開催する街興しのためのイベント(まちゼミ)ですが、今回で17回目になります。
宇野獣医科病院では、毎回、犬と猫の講座を行っていますが、今回は、犬に関しては、6月11日(日)午後1時30分~3時30分、“アイコンタクトで良い犬を育てる” というテーマで行います。
また猫は、6月4日(日) 午後1時30分~3時30分、“猫の本当の気持について教えます” というテーマでお話します。
文章ではなかなか伝えることのできない、「犬やネコの気持ちや関わり方」について、こうした講座で詳しく解説し、より深く理解してもらうことを目的に行っています。
結果として、一人でも多くの人が犬や猫と暮らす喜びがいっそう大きなものに、また、犬や猫の問題行動が解決できることを願い、行っています。
講座は全て無料ですので、お気軽にご参加下さい。
もし、興味と時間がある方は、宇野獣医科病院【電話0564-45-1611】まで、お申し込み下さい。会場は病院併設の教室で行います。定員は16名ほどです。
なお、『岩津ゼミ』では、様々な分野の講座も開催されますので、是非、一度、『岩津ゼミ』のホームページをご覧ください。

『岩津ゼミ』:http://home1.catvmics.ne.jp/~uno-vet/wan.html

第17回岩津ゼミ:チラシ表

第17回岩津ゼミ:チラシ裏
  


Posted by うのてつやす at 18:29Comments(0)講座開催の告知

2017年05月15日

今時の犬と人の関係・・とは!?

犬は、おおよそ3万3千年前に、野生の狼から、分かれて人に近づいてきました。
狼にとってはとても危険な選択をしたことになります。一つ間違えれば、人に殺され、食べられたかもしれません。それにも関わらず、人に近づき、残飯目当てに危険を犯しました。
当然、狼が野生で生きていくのは大変なことです。あらゆる能力を駆使し、獲物を捕り、子を育て、家族を養い、やっと生き続けることができるのですが、そんな能力があっても、人が捨てた残飯をあさるほうが、獲物を獲って生きるよりも有利だと判断したのでしょう。
しかし、そのためには狩猟能力より、人の行動をよく観察し、うまく順応し、人に好かれるように振る舞うことのできる能力のほうが役に立ったに違いありません。実際、警戒心は弱く、服従するよりも人に取り入ることの上手なものが、犬として生き残ったと考えられます。

そして、犬は、1万5千年前には、人の家族の一員としての地位も獲得しました。
この頃、人類は地球上あらゆる場所に生活圏を広げていましたが、それにも犬がお供したと考えられます。どんな厳しい環境においても、狩猟の手助けをし、人の生活を支えてくれる犬の存在は大きかったと思います。その人の生活スタイルにより、仕事も多様化し、より役立つ犬が選ばれ、時代とともに、様々な犬が生まれてきました。
人は、生活のために犬を飼い、犬は、人から食糧を得るために働き、その共生関係は、時の経過とともに深化し、人の生活に欠くことのできない存在となり、犬の優れた能力は、様々な分野で生かされることにもなりました。

街に徘徊する犬(タンザニアにて)

ところが、現在になって、世界中の発展途上の国々では、多くの犬が人の集まる街や集落に仕事もなく徘徊し、残飯をあさり、放浪しています。特定の飼い主がいるわけでもなく、かといって、野生に戻り、狩りをして自活することもありません。
世界中で人口が増え、犬にとって、残飯など食糧を手に入れる機会は増えました。その結果、犬は勝手に繁殖し、数を増しています。一方、人の生活スタイルは変わり、犬の力を借りなくとも生活できるようになりました。しかし、犬を養うだけの生活にゆとりはありません。かえって、このような社会では、犬との関係性は希薄になっています。

我が家の“プー”です。

一方、生活が豊かでゆとりある人々は、犬に、特別、仕事らしい仕事を与えることもなく、ただ、“可愛がり、愛する”ことを目的(愛玩)に、犬を飼っています。見方によっては、人の養育本能を満たし、人に“幸せをもたらすこと”がその犬の仕事といっても良いかも知れません。
愛玩犬として作られた犬の特徴は、本来の犬の姿や行動までも幼く、かわいらしい犬になりました。行動上も、人に甘え、へつらい、赤ちゃんのように振る舞います。心は未熟で、強い者への服従は苦手です。
食物よりも愛情を欲しがり、甘えて媚びれば、食物は無条件に手に入ることを知っているようです。ミルクをせがむ赤ん坊と母親の関係のようなものです。
人が、こういう犬と楽しく幸せに暮らすためには、精神的な乳離れをさせる必要がありますが、我が子のように、また、それ以上に可愛がりたい飼い主にとって、それは難しい問題です。しかし、そうしなければ、駄々をこね(咬むなど)、自己中心的な行為(吠える・不適切排泄など)に悩まされることになります。

犬は、人との長い付き合いの中で、獲物を捕るための狩猟能力から、人の心や気分を読み取る能力を発達させ、人と共感できる能力までも身に付けました。
これにより、犬は人の気持ちを瞬時に読み取ることができます。しかし、多くの人が、犬の気持ちを正しく理解し、適切に振る舞うことができません。もし、気持ちがかみ合わないままに暮らしていれば、“幸せをもたらしてくれるはずの犬”も、その目的が果たせないだけでなく、もどかしく不安な日々を過ごすことになります。
犬の気持ちを正しく理解して接することは、犬との幸せな暮らしのためには、とても大切なことです。
  


Posted by うのてつやす at 01:09Comments(0)人と動物の関係

2017年04月10日

動物の『生きる権利』や『命の重さ』は、みな同じ‥、ですか?

子猫の命、重さはいかほど・・?
最近は、少なくなりましたが、夜中に突然、病院のインターホンを鳴らし、『猫がケガをしているから診てくれ!!』と、何の前触れもなく、呼び出されることがありました。しかし、その猫の多くは野良猫です。
飼い主のいない動物(野生動物は別として)の診察は、原則、お断わりしていますが、状況によっては、『飼い主を探してもらうこと』を前提に預かり、治療します。しかし、最終的に見つからなければ、“安楽死”することになります。
でも、こういう事例に限って、治療費を払ってもらえないことも多く、そういう人たちの社会的良識の無さに呆れることもしばしばあります。
また、ある時、診察するかどうかで、状況を聞かせてもらっていると、それに苛ついたのか、突然、怒り出し、『猫も人も命は同じだ』、『お前は獣医だろう! この命を見殺しにするならマスコミに訴える。こんな病院は潰す!!』とまで言われ、仕方なく診察したことがあります。しかし、このままでは終われません。猫の治療はさておき、連れてきた者に対し、猫の『命の重さ』や『動物観』についてなどなど、深夜に延々と2時間、説教をし、『動物』に対する考え方を改めてもらったことがあります。

今回、このような問題に関連し、動物の『生きる権利』や『命の重さ』をどう評価するか、ということについて語ってみたいと思います。

生き物には『生きる権利』が与えられています。例えば、野生動物には、“自らの力で、与えられた自然環境の中で『生きていく権利』”があるということです。

では、人が餌を与え、生かされている動物(家畜やペットなど)の『生きる権利』や『命の重さ』はどうあるべきでしょう。

牛や豚などの家畜は、誰にとっても有益なものです。乳や卵や被毛をもたらし、あるものは使役に使い、最後は“命”に変えて、肉や皮革をもたらしてくれます。それ故に、その家畜の『命の重さ』は、お金に換算することもできます。
飼育者は、最大限の愛情を持って、管理し、育て、その利益が最大となるところで、その“命”を絶ち(屠殺し)ます。この時点での、その動物の『生きる権利』はありません。しかし、これによって多くの人々に“幸せ(食物)”がもたらされます。
すなわち、家畜の“命”は“人々の幸せ”のためにあり、人の衣食の豊かさは、家畜の“命の代償”といってもいいでしょう。そういう意味でも、家畜の“命”は愛しみたいものです。

一方、犬や猫のようなペット動物は、飼い主個人の“思い入れ”(価値観)によって、その動物の『命の重さ』が決まります。飼い主にとっては、“大切な命”です。当然、『生きる権利』も最大限に与えられます。

ところが、本来、人に幸せをもたらすべき猫が野良化し、地域の人々に迷惑をかける、疎ましい存在になったとしたら、その『命の重さ』や『生きる権利』をどう考えるべきでしょう。
もし、その野良猫に餌を与え、世話をしている人なら、その猫の『命の重さ』や『生きる権利』を守るべきだと主張するに違いありません。しかし、その地域住民は、多くの問題や迷惑を被り、その猫に『命の重み』や『生きる権利』は、正直、認めたくはありません。結局、猫に対する“個人的価値観“や“思い”によってその評価は、大きく分かれます。

一般論として、いくら世話をする人に“思い入れ”(利益)があったとしても、自ら世話をしている動物が、誰であろうと他人に迷惑をかけるようなことがあってはいけません。もし、他人に損害を与えるようなことがあれば、それを償う責任もあります。
結局、飼育動物に関する個人的価値観を他人にまで押しつけることはできません。
他人が犠牲になるような、独りよがりな“動物愛護”なんて、あってはいけないということです。“動物の保護や愛護”は、普遍的なものでなければいけません。
例えば、ツシマヤマネコやイリオモテヤマネコのように自分の力で野生に生きている山猫の“命”は、希少で、とても“重いもの”です。生物学的にも生態学的にも大切にしなければいけない、かけがえのない“命”です。その『命=生きる権利』を守る(動物保護)活動なら、誰からも非難を受けない、普遍的価値があります。
ところが、野良猫や野猫の『命=生きる権利』を守る活動は、多くの人から迷惑がられます。これは個人的価値観から発している活動だからです。従って、両者を同一視することは、全くナンセンスなのです。
もし、仮に、その野良猫が、地域に発生する有害なネズミをことごとく捕り、地域の衛生や財産を守ってくれるのであれば、地域の人々はその猫に『生きる権利』を認めるかもしれません。しかし、街の花壇にオシッコをかけて、花を枯らしてしまうなら、その猫の『生きる権利』を認めたくない人も現れるでしょう。
人から餌が与えられ、世話をされている動物は、生きていれば“幸せ”ということではなく、どれだけの“幸せ”が、人にもたらされるかが問題で、それによって、その動物の『命の重さ』や『生きる権利』が自然に決まります。

  


Posted by うのてつやす at 17:41Comments(1)人と動物の関係

2017年04月06日

はじめまして・・

はじめまして・・。
岡崎市岩津町で宇野獣医科病院の院長をやっています。宇野哲安と申します。
獣医師になって、もう40年にもなります。
仕事柄、人一倍、多くの動物と関わってきました。もともと、“生き物大好き人間”、動物との関わりについては、誰よりも広く深く学んできたつもりです。
しかし、この経験や知識を、このまま身近にいる人だけに伝えているだけで良いのか? 世間の動物に関する認識は、あまりに稚拙で表面的、これをなんとかしなければ‥? との思いから、ブログを書くことにしました。
より多くの人々が動物の本質を理解し、動物とのより良い関係を築くことができたら‥、と考えています。

かつて、一個人として、Yahoo ブログで『ぽんつく獣医のつれづれ日記』に少し書きましたが、今後は、この場所に移し、改めて、『動物と人の関わり』について、それぞれの動物の立場から、『獣医師:うのてつやす』として書いていきたいと考えています。
興味ある方は、『ぽんつく獣医のつれづれ日記』も含め、覗いてみてください。

  


Posted by うのてつやす at 11:44Comments(1)